昭和46年11月18日 朝の御理解
御理解 第23節
「氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。」
お道の信心は、神と仲ようする信心ぞとある。神と仲ようする信心という事は、どういう事だろうかと。神様に近寄るということはどういう事であろう。今日御神前で頂きました。肥前の肥という字ですね。肥前肥後と言うでしょう。月を書いて己という字を書いてありますかね。肥前の肥です。これは肥えるという事と読むんじゃない、肥えるという字でもありましょうかね、肥前の肥は。月を書いて己。まあ私はそう感じ、ですからそう御理解に頂いたんですけれども。
月に己というのは、それが肥えるという事はどういう事かと言うと、信心は自分自身、いわゆる自己感性とでも申しましょうかね。いわゆる人間が本当に人間らしくなって行く稽古なんです。いよいよ人間が人間らしゅうなって行くということ。もっと言うと、人間は、いわゆる元々神の氏子であるから、ね、その氏子としての本分と言うか、それを身につけて行く。人間万物の霊長と言われる、その霊性をいよいよ磨き上げて行くということ。それがいよいよ神様に近づいて行く事なんです。
信心とは和賀心が神に向かうのを信心と言うのじゃ。所謂教祖金光大神様が教えられる信心とは、そういう事なんです。所謂生神を目指すとか、生神への道とかと言われるのも、そういう訳であります。近づくと言う事はもう愈々、そう言う事だと、神に近寄るということは。そこで、神に近寄ると言う事は、どう言う様な状態を持って、私どもが神に近づいて行っておるなという事になるかと言うと、月に己と月です。お月様。まあ太陽に対する月という事に致しましょうかね。月そのものには光はない。
月そのものには光はないけれども、それが太陽の恩恵というか、太陽の反射を受けてああいうように、十五夜ともなりゃばそれこそ、昼をあざむくような煌々として下界を照らすという。所謂盆のような円い円いお月様。まあそれこそ昼をあざむくような明かりもなる。だから問題はこちらの心が愈々、盆のような円い円い円満な心になって行くという事なんです。氏子が段々完成されて行くと言う事。お道の信心によって言う、自己が完成されて行くと言う事は、自分の心が愈々大きく、明るくなると言う事。
円くなると言う事円満になると言う事。所が私どもの心の中はいつも暮れの闇であるとするならば、信心を頂いておる値打ちはないのであり、それが信心が分からせて頂くようになり、ほのかに心の中に光が射してくる。この信心によって、これは助かる事が出来るぞと。この信心によれば人間は愈々幸せになれるぞという手がかりをつかむ所から、心がいわば少しは安らいでくる。それが段々本格的に、本当なものになって行くというかね。言うなら三日月さんぐらいから、半月さんぐらいになって行くわけ。
だから三日月さんでも、やはり少しは暮れの闇よりかまだまし。半月さんにでもなりゃ、もう提灯はいらんくらいに明るい。ように自分の心が信心、神を信ずるという事からです、段々心にゆとりが出け安心がでけ喜びが生まれ、ね、心が愈々和賀心を目指して円満になって行くわけ。私は今日頂いて肥前の肥とはそういう内容の事を教えておられると、私は思うた。皆さん銘々、自分の心の中に頂いておる、ならお月様で例えるならば、どの様な所を通っておるだろうか。
三日月さんぐらいな所を頂いておるだろうか。いやもっとましだ。いや半月さんぐらいは明るく心が頂けておるんだと言う事。心が愈々円満になって行く。そういう例えば目指し、所謂十五夜のお月様のようなね。所謂満月のような心を自分の心の中に頂こうという、そういう精進が神に近づいて行くんだと私は思う。神に近寄るようにせよと。まっそういう事を、今日の23節では、まっ頂いた訳であります。そこでそれをんなら具体的にどういうようにして、今神様へ近づいて行くかという事なんです。
例えばお広前お引き寄せを頂いて、皆さんが御祈念をなさる。でもやはりです、ね、それはお広前の一番後ろから、隅の方から拝んでも、それはやはり同じ事ですけれども、やはり、一番正面に出て来て拝んで御覧なさい。気分が違うです。不思議です。もう私共はもうどこに参りましても、これは私は昔から絶対ここは私の席だと、もうなら御本部参拝なさるなら、私は御本部の一番神様の前を、いつも神様が開けて取っておって下さるように、そこで頂きます。
奥城となどに出ますと、もうどのように沢山な人が、もう奥城の周囲を取りまわして御祈念しておっても、私ども合楽の者が参りますとバアッとあの、神様の奥城の前が開きます、送り合わせを頂きますね。そして私が本当に教祖の神様の奥城の前、もう正面で御祈念が出けるようなお繰り合わせを頂きます。それは私がそういつも思うておるから。ね、御祈念はもう横からよりも斜めからよりも、後ろからよりも真正面の一番そこで、真正面切ったところで御祈念をすると、私はこう決めております。
どこへ参りましてもそうです。先日はあの福岡の記念祭にお参りをした時なんか、ああいう大変なお参りの中に、私が一番始めに案内を頂いた所が、もういっぱいで、先生方でいっぱいでしたけれども、結局私が福岡で修行中にいつも私が、私の御祈念の座と思うておった一番前、中央の神様のまん前の、一番まん前に案内して頂いたですからね。私はもう、本当にそういう意味でです、これは、形の上からでありますけれども、神様へ近寄るようにせよと。ね。
なぜかと言うとね、そうしたが一番素晴らしいという事は心が乱れないです。後ろの方から拝みよったっちゃ人の、ね。先日ある人が、合楽の御信者さんの後ろ姿ばっかり見ておる人でしょうたい。ね、誰々さんなこげな癖があるとか誰々、もう後ろから見た癖ば実演して見せられて、もう腹を抱えて笑った事ですけれども。そういやほんに後ろからお届けさっしゃる時の、やっぱ色々癖があるとですよね。おしりをこうこうやって動かす人があるかと思うと、どうか体をもう色々癖が、後ろからいつも見ござる。
何ば見ござるかと思いよったら、人の拝みござる後ろばっか見よる。だから、拝みよる人の後ろからばっかり、人のおしりどん拝みござる事になって来るわけ、ね。ならこれだけ沢山な人がお参りをするのですから、それを押し退けちから前さに行けという訳じゃないですけれどもです。そういう心掛けが大事です。神様に近寄るようにせよ。私どもは後ろから拝んだっちゃ拝んだ気色はせん。その為には、やはり人よりか少しは、早うお参りもせんならんという事にも、なる訳です。神に近寄るようにせよと。
もう所謂邪魔もする物がない、災いされる物がない。それはどっから拝んでもです、自分の心次第では同じですけどもそこは人間ですから、矢張りあちらやこちらや見えたり聞こえたりしないが、矢張り神様へ向かうて行く。矢張り近よるという事はそういう事でもあると思うですね。昨日はもうのっぴきならない皆さんの真心と言うでしょうか。初めてあの初めてという訳ではありません、まあ是で二度目ですけれども。初手の場合は後ろの方の客席からでしたけれど、今福岡場所の相撲があっております。
にご案内を受けました。もう本当にどうにも断りようもないほど、私は相撲というのは、あんまり好きじゃありませんし、テレビでも見ると言うて見た事がないくらい。ですから興味を一つも感じない訳ですね。もう何年か前にどなたか、高橋さんか誰かの御案内で見せて頂いた時には、半ば頃の席からでしたから、やはりこう双眼鏡で見らなきゃならないような感じだったです。ですからもう退屈でしょうがなかった。
ところが昨日はもう愈々私のために席を設けておりますからという、もうあの砂被りという緑のふさに下がっておる、ほんなそこの下でございました。しかももう小さい座布団一枚に、もうこんなして座らんならんという話でしたけれども、もう本当におかげを頂いてから、後ろ前とうとう見えない方がありましたから、もう実にゆっくりとして、もう本当にお相撲さんの息遣いが聞こえるところ。
もう二回ほどはもうこうやって私が、ボーンと投げられてあの下へどうして落ちてくると、もう足が私の上にする様に本当に砂被りという所ですわね。砂が飛んでくるという。だから他に見ようがないもうどの様に他にない相撲取りさんだけしか見ようがない。本当に私は昨日それ見せて頂きながら、是をもし若い時にこういう風なチャンスがもしあったとしたら、私は本当に相撲好きになっておったかもしれんと思う位でした。
昨日私久富正義さんと、久保山茂さんと、久富繁雄さんが一緒に行って下さった。綾部さんの御招待でしたから、それに綾部さんを加えてでございます。それはもう、本当にこの、実感というものは、もう側で見らなければ分からないですね。もう相撲さんの裸の姿の美しいこと。今日は大鵬は来とるじゃろうかち言うちから、私はあのかぶりに入る時に言うて、それからちょうどあのあれは何と言うか繁雄さん、なんと言うでしたかねあの親方は、昨日私どもがあれしてもらった親方の名前は。
ああ元北葉山て言うそうですね。今何とか部屋の親方になっておられます。その方がもうずうっとその、まあその綾部さんのところから、その私が最近金光様の御信心を頂いて、こういう先生がおられるという事を聞かれたそうですから、もう場所の度に手紙が来るんです私に。どうしてもその親先生という人を相撲好きに私がしてみせますと、その北葉山が言っておられるっちゅう。ですから是非いっぺん今度という今度は、そこ行って頂きたいという訳でございました。
それであの番付けなんかはもう、大きな封筒で度々送って来ますけども、好きじゃないですから、あれがお芝居か何かならね、大変私は反対に好きですから。けどもそれを開けて、封も切らないぐらいにして、こう溜まって行きよるです、その親方が送って来て下さるのが。その親方が、すぐ出迎ええて下さいました。そしてからあそこ椅子にかけさせて頂いておりましたら、あの茂さんが、今親先生が仰っとったこの方が大鵬です。目の前を行ったのが、洋服姿で座る。
まあそれは断髪しておる大鵬の姿の美しいこと。ほんなこと見とれるごとあるですね。私はあの人はあんまり好きではなかったです、あのテレビで見る時に。けれども側で見たら、その美しさというか、その凛々しさというか。もう見事ですね。それからすぐまあ、案内を頂いて、その席に着かせて頂いたら、十両前の若いお相撲さん達が取っておる時でしたが。私は、本当に早く行って、早くという訳じゃないですけど、もう、ここを昼すぎに出たんですから。
何と言うんでしょうかね。もう一番印象の深かったのは、あのテレビに映る前のね、あの、その若いお相撲達の相撲の中に、非常に一二番、もう印象に残ったお相撲がございましたですね。もうそれからあの行司さん達の多い事ね。二組ぐらいから、もう変わられる。その態度の素晴らしいこと、行儀の良いこともう驚くばかり。ね。それから私はその、何て言うですか。どこやったかねああびょうぶだにかね、昔びょうぶだにそれからつるがみねが、まあ相撲は見らんとか好かんとかと言いながらも。
その相撲がまあ好きでしたが。その人達があの監査役ですか、検査役かであのほんな目の前におる。まあ側からもう本当にまあ近々に見せて頂いて、いわばテレビで見るとか写真で見るというではない、もうそこに見て感ずるという事。本当にそれを思いました。これは、その、北葉山が言われるように、その合楽の親先生という方を必ず私が相撲好きにしてみせますと言わっしゃったげなが、これは本当に何遍でん見よると、これはいよいよ好きになりゃせんかと思うくらい。
まあこれは後にも先にも恐らく昨日という、その相撲見物が、もう最後になると思うですけれども、これを続けて見よったら、確かにぼうけてしてしまうぐらいにあるじゃろうと思いますね。さあそれが今日私が言う、その神に近寄るようにせよと、いう事だそうです。ね、神と仲ようする信心ぞと。相撲が好きになる為にはですね、やはりそういう例え場面に触れるとか。ね、そこからいわば相撲ちゃ素晴らしいと、いう事になって来るのじゃないでしょうか。
私が、ね、半ばから見ておった時には、もう本当に早うしまえや良かがとか、お神酒を頂きながらとか、お弁当が美味しゅう言う様な事で、立ったりしゃごだりばっかりしておったのがもう、昨日はもうこう座ったぎりねこうやってそのもうそれこそ、私は身動きもせずに何時間かということを、足の痛いのも忘れて見惚れておりました。北葉山が、ちょうど、(はれてから?)、あそこのこれもまあ、博多の超一流ですね、(新村?)という水炊き屋があります。それはもう大変なお店です。
なるほど博多一番の料亭ですからね。そこへ行って夕食を呼ばれたんですけれども。そこへまたわざわざ北葉山が来て下さった。で一緒にその食事を共に致しましてから、行かせて頂いてです、もうざっくばらんな、もう私の事を手紙で綾部さんから聞いてあるもんですから、合楽の親先生、親先生とこう言われるんですよ。で私は何て言うて読んでいいか分からんから、だいたい何ち言ってこの方呼ばにゃならんですかち。ほりゃ親方、親方でいいですよち。結局親方と親先生の出会いでございました。
そりゃ、今度また日田に参りますから、そん時はまた是非て言うて終えられましたけれどね。本当に、その、私はその、監査役で出られるですね。向こうの席に座った。それで、もう親先生ばっかり見よりましたち。もう、いつ立ち上がられるじゃろうか、いつ、もう飽きなさるじゃろうかと、綾部さんから聞いておってから、先生ばっかり(通じて?)見よりましたよち言うてから言われます。
けれども私がそれこそ行儀ようキチッと座ったきりでですね、もうお茶も飲まなければ水も頂かない。本当に神様のおかげというものはね、もう行きがけには自動車の中で限りなしに水を飲んで行ったんですけれどもね、あそこでは水一滴お茶一滴頂きませんでした。それは一番前ですからあれは禁止されてるんですね。テレビに映る所ですから。昨日も私共ならもう行事をこう見る真正面の所ですけど、テレビには映りませんよね。
もういわゆる一番、いわゆる今日私が申しますなら、神様へ打ち向かうでも一番神様の正面のここに座っておるようなものでございましたから。まあそう言う様な事からですそして、今日の23節を頂いて、確かにそうだなと。仲ようするとか好きになる為には、やはり側に接近しなければならないと。もう相撲の雰囲気をそこで満喫する事が出けるそれは、もう本当に国技と言われるほどしの、あそこはやっぱショウはショウでしょうけれどもね。ね。そして今日のお相撲をご覧になってから。
どのように感じられましたかて、私が聞かれましたから私の実感ですから、もう私はあの十両あの、からの幕内とか十両とかというよりも前のね、あの若い方達の相撲が一番面白かったち言ったら、はあ、そうですかち。本当に私どもが見とっても、あの若手の相撲の中に、一二番とても良い相撲がございましたもんねて。やっぱり同じところを見ておられるようでしたですね。それから、私は感じた事は、もう本当に見ながらですね、土俵に皆が上がられてから。
あの仕切をされるあの時間が、テレビなどでは待ち長いごたある好かんもんには。所が好かん私がです全然時間を感じませんでした。その仕切をする度にこう高まって行く一つの闘志と言った様なものがね目の前に感ずるです。息遣いから聞こえる所ですから。もう体全身に血がずっと真っ赤になって行くですね。それが段々しきりをして行くたんびんに、その雰囲気が出て行く。そのそしてあのぶつかり合いの凄まじさね。
そしてですそれこそいわば二人ともが勝たねばならんというのですけれども、片一方は必ず負けねばならない運命にあるということ。もう、その時には、あの花道を負けて下がって行くその力士の人達に、後ろから行ってから御褒美を何か花か何か持って行ってやりたいごたる気がしましたち言って。だから、これは、負けた方にも御褒美をやるような仕組みはないもんですかて言うて言うた事でした。そんな気がしますね、私は見とって。勝った方は、もう意気揚揚として下がる。
だから、もうそれだけで、御褒美はいらんごとある。もう、負けて下がる方にこそ、私は何か花の一つもやらなきゃいけんのじゃないかと思うくらいに、色んなものを感じたって。私のまあ実感ですけれども、結局、まあ、見方が違うわけですね。もう、本当に可哀想なというかね。ね。負けて花道を下がる力士の悄然として行く姿。中には、あれは何とかという相撲でしたけども負けました。それは、もう潔い負け方しましたけれども、負けた時に、ガ―ッと笑うてね、下がったのが一人おりましたがね。
お互い、やはり勝っても負けても、勝ったからと言うて慢心しちゃならん、負けたからと言うて悄然とするような事であってはならないといったような事がね、まあ、実際にこう、教えられた感じが致しましたが。ああいうのを、例えば度々に見よるどもしよるならば、いよいよ好きになる事であろうと、私は思います。信心でもそうです。信心は好きにならなきゃいけん。神と仲ようする信心ぞと仰る。
その仲ようするという事がです、形の上ですけれども、本当に信心、御広前ででもです、砂かぶりというところに出て来なきゃいけん。神様の息吹が聞こえるような。御理解を頂くでも、私のいわばこのしぶきが掛かるぐらいなところで御理解を頂くのと、向こうの方から頂くのとじゃ、大変な違いなんです。それをそのまま例えばテープでども頂いたんじゃ、もう実感はないです。やっぱり生にこうやってお話を聞いて頂かなければです、いわば本当の御理解の有り難さというものには触れられませんね。
それは、御理解を有り難く頂かせて頂く、いわゆる信心が好きになる。神と仲ようする事のためにです、そういう工夫がなされなければなりません。御広前の砂かぶりと言やあそこですから、神様を拝ませてもらう。もう広々とした御広前の、例えば御祈念後のお参りする方達なんかは、もう本当に、私は前の方へ出て来て御祈念でもなさるような気持ちが必要じゃないかと思うですね。いよいよ神と仲ようする信心。神を恐れるようにしてはならんと。心の上から神と仲ようして行く、神に近づいて行く。
形の上から神様に近づいて行くという、形の上からの事を、相撲の例を持って聞いて頂いたですね。心の上でいよいよ神様と近づいて、神様に近づいて行くという事は、肥前の肥という字から、私が頂く、御理解を聞いて頂きましたですね。いわゆる、自分のいわば心の中が、いわゆる和賀心。それこそ、満月のいわゆる、十五夜のお月様のような心を目指して、私どもが進んで行く。ね、
それが十五夜であれば十五夜、円ければ円いほど、その例えば天地の親神様の光を受けて、太陽の光を受けて、昼をも欺くようなというような光を放つ事が出けるように。ね、姿形は人間でも、それこそ仏様じゃろうか、神様じゃろうかというようなです、ね。人間にそういう光とか力があるはずはないけれども、神様からの御恩恵を十二分に受けて止める事が出来る。そこに、人を欺くような、いや、神をあざむくような、いわば光も力も受けておる人は、そういう人達なのです。
月そのものには光はないけれども、ね、三日月であれば三日月がたの光しかない。ね。暮の闇になれば、もう暮の闇である。それが、半月になり、十五夜のようなお月様のような心の状態に、和賀心が円満にならせて頂くところからです、ね。それこそ、神をあざむくような。それを、お道では生神と言う訳です。生神とはここに神が生まれるという事であってと仰せられる。
自分の心が有り難い、勿体無いでいっぱいになる時に、それは、もう即そのまま生神の姿である。ね、不平もなからなきゃ不足もない。そういう姿に触れた時に、皆もその光に浴する事が出けるほどしのものなのであります。ね。それは、心の上から本当の意味においての神に近づくというのもそういうこと。その過程においてです、形の上からでも近づかせて頂く。いわば、心掛けといったような事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。